さようなら、ピロウズ。

2004年9月16日、当時佐世保に住んでいた僕は、その日15周年を迎えたピロウズを見に、東京は渋谷AXまで行きました。その時、見に行く前に、僕はこんなことを書いていたようです。

僕にはひとつの予感があって。15周年ってくらい長くやってるバンドが、しっかりと変化を続けながら、今日に至っているわけですが、その変化の、山場が、この9.16に来そうな気がするのです。

具体的に言えば、ピロウズが作ってきた名曲たちを、本人たちが、曲が作られた時の感情で演奏できるのは、この日が最後かもしれない。ストレンジカメレオンに、ハイブリッドレインボウに。圧倒的なチカラを感じて、拳を振り上げられるのは、ひょっとしたら、もうこの日が最後なのかもしれない。

勿論、ピロウズがこの先、この曲たちに新たなイミアイを付加してくれることは不安ながらに信じているけども、この日を境に、見れなくなるものが、きっとある(或いは、この日にだってもう見れないかもしれない)。この日を見に行かなかったら、何がしかの後悔をすることになるんだと思う。だから僕は、見届けに行こうと思います。

僕は、自分が好きだったピロウズが、この日に"終わる"予感は、物凄くしていました。だからこそ、「九州から来るとかおかしい」とか言われながらも、記念とかじゃなく、解散ライブを見に行くくらいの気持ちで東京まで行ったのです。そして事実、その後のピロウズは変わったと思います。しかし、変わりながらも、確実に残る根っこを感じ、僕は予感が不安という形で的中しきらなかったことに安堵もしていました。

2004年、僕が感じていた、ひとつの終わり。それは、それから2年半ほど経った今、やっと、やってきました。壮絶な違和感と戦いながら聴いた(それは、作品自体の質とは別の意味で)アルバムの終わり、アルバム中で一番気に入った曲、『Sweet Baggy Days』で、ピロウズはこう歌ったのです。
『悲しいフリをするのって向いてないな 動物みたいに』
僕は、このフレーズを聞いて、やっと「ピロウズ」を諦めました。悲しいフリは出来ないピロウズは、そういいながらも、以前と変わらない孤独を根っこにはしていて。でも、その先に生まれる表現は、全く違うもので。そこに共感できないのは、もう仕方がないんだろうな。ピロウズは次の表現に移り。そのピロウズに、以前と同じ期待をするのは、健全ではないでしょう。ちょうど『スケアクロウ』について書いた文章で僕は、『Trip Dancer』を取り上げて比較というか、対比させて感想を書きました。その後、ニューアルバムを聴いたところ、やはり『Trip Dancer』と対比できるような表現が気になりました。『僕の振り回す手が空に届いて あの星を盗み出せたら何か変わるのか』と歌っていたピロウズは、今作の『Boat House』で、『今夜そっとキミに似合う星を盗んでプレゼントしよう』だってさ。いつの間にそっと、キミに似合う星とか選んだ上でプレゼントなんてするようになったんすか。『Funny Bunny』で、『ほどけてバラバラになったビーズ キレイだねって夜空にプレゼント』した星とは別のもんすか。無意識だとしたら微妙だし、アンサーソングだとしたら、余りに小さい。

それでも、僕はピロウズの新譜を楽しみにし続けて、好きであり続けると思います。けれども、今までの余りに特別すぎたピロウズを待つ気持ちとは、同じではないでしょう。ワンフレーズごとに胸倉を掴まれるような。それが一曲丸々続くような。そんな曲が、アルバム一枚続くような。一曲一曲が、一枚一枚が、確実に僕の一部となるような。くだんねぇことをくだんねぇままに笑い飛ばせるような。聴きながら、悲しくて死にたくなるような。泣きながら拳を突き上げたくなるような。ダメながらも間違っていない自分を肯定できるような。本当に大事なものだけをしっかりと大切にしたくなるような。
さようなら、ピロウズ。今までありがとう。願わくば、次のあなたたちの変化が、再び僕のど真ん前に現れんことを。