えと、ネット上で「消費者」が酷評をするべきか否か。
これは僕は決めるでもなく決めていた運営方針でもあるんだけど、僕はここでは、薦めたいものだけを書くようにしてて。基本的にここは、感銘を受けた作品に対する記録として書いてるので、まぁ薦めたくないものを敢えて書く必要ないよな。というだけの話。自分に関する話とすれば、全くもってそんだけで終わるんだけど。

じゃあ、レビュー的な文章を書くとして、僕は酷評をするか。と言えば、やっぱり、しないと思う。例えば評論家ってのは、当たり前といえば当たり前だけど、評論で飯を食ってる人で。その人が酷評をするって場合、それが的外れな酷評であれば、それはダイレクトに自分に返ってくる。仕事が来なくなるかもしれないし、こんなの載せる雑誌、もう買わねぇ、ってことにもなるし、或いはミュージシャンに殴りこみ受けた実例だってあるでしょ。これが、責任ってことだと思う。何か当然のこと書いてて早速自分で空しくなってきたけど。そこの区別さえついてれば、議論にもなんない話だと思うのに。

えーと、翻って、ネット上で酷評するってことは、こういう責任が一切取れないわけで。更に、不特定多数の人間が、見たくなくても見つけてしまう場合も多々あるわけで。購入した人間の権利だとか、批評によってクリエイターが育つってのは、もう論外ね。じゃあネット上で書かずに直で言えばいいじゃん。それを垂れ流す必要なんて、どこにもない。そもそもクリエイターを育てる目的とかで書かれた批評なんてネット上で読んだことないし。どっかで機会損失って話が出てたけど、そういう文章を書くことで、それをうっかり読んでしまった他の誰かの可能性を潰すってのは、すごくくだらない。クリックひとつで作品との出会いが出来る時代は、同時にそのクリックを止めさせてしまうようなくっだんねぇ文章との出会いを併発してるってことすかね。

あとはもう単純に、ネガティブな文章書くと、読み手にネガティブな感情を与えちゃう、っていう。僕が最悪だって思った作品は、誰かにとっての一生モノかもしれない。それを、安易に貶めることで、その出会いを阻害したりとか、既に出会ってる人に嫌な気分をさせたりっていう権利っつーのが、何の制限もなく好き勝手にネット上に文章を書いてる人間にあるのか、というね。うん。

じゃあ、お前はアーティストへのマイナスイメージを植えつけるような文章を全く書かないのか、と言われたら、書いてる。それをどうしても書きたい時だって、ある。でも、頭ごなしに叩き潰すような文とか、全否定とか、そういう「酷評」とは、また違う話で。そこは読む人が流せるように雑談にしたりとか、あるいは先への期待とか、ここが良いだけに、残念、とか言うカタチにすることで配慮しているつもり。つもり、じゃねーか、とか、結局書いてんじゃねーか、ってツッコミも入りうるとは思うけども。でも、「日記」の中で批判してるのと、「感想」として批評するのと、「レビュー」として批評するのは受け取る側としてぜんぜん違うし、勿論amazonとか自分のスペースじゃないところで書くのは更に違うでしょ。それを踏まえるだけで、文章って全く違うものになるはず。

その辺を、「結局は愛」っつってた人がいました。作品ないしクリエーターに対する愛がある批評は、単純なマイナスイメージにはなりえないから議論が紛糾するようなことにはならない、っていう意見だったと僕は解釈してるんだけど、僕が思ってたのは、「結局は哲学」っつーことで、何にも考えずに脊髄反射的に批評しないだけの配慮であるとか、若しくはそれを垂れ流す悪意を飲み込むだけの意思がありゃ、こんな話にはなんないのになぁ、と。そう思ったわけです。もう一度言うと、本来、議論するだけの問題じゃねーっつーの。